心に響くメッセージを独自の感想も踏まえて紹介して行きたいと思います。

真実とは一人一人にとって異なり、
各々で探求していく事の大切さをブルース・リーは教えてくれているとお伝えしました。
»自立した探求心の必要性
それでは、「真実」とはどのように見出せるものなのか??
彼の言葉と共に考えてみたいと思います。
スタイルにとらわれない心で見る

結論から言うと、
真実とは特定の「枠」の中で見いだせるものではない、という認識だと私は思います。
あなた自身がそうで有るように。。
細分化されたスタイルや形式に捉われる事なく、
中庸な心・視点で全体を見る事、
自由な心で探求し続け自分自身と調和させた時、それ=真実が訪れる、と。
ブルース・リーは以下のようなヒントを与えてくれています。
中心も円周も存在しない時、真実が存在する。
〜「ブルース・リーが語る ストライキング・ソーツ」ジョン・リトル(編)より〜
我々は何かしら決まり切ったスタイルに当てはめようとしたがります。
パンチや蹴りを例にしてみても、
競技、それぞれの流儀、もしくは国によって異なり、
スタイルを強要させられる事もしばしば有るでしょう。
ではなぜ、そもそもスタイルに当てはめようとするのか??
人は特定のスタイルに当てはめたがる

他と差別化させる為、
オリジナリティを発揮させたい、流儀に誇りを感じたい。
などの想いを感じる面もあれば、
『システム化させた方が楽である』との考えもあるように思えます。
(人は大概、変化を嫌う生き物です。)
それに対して、リーは
「(その人にとっての真実は)決まりきったスタイルの中にあるものではない。」とハッキリ伝えています。
真実は人跡未踏の道だ。
道でない道。
それは以前以後の区別のない、全体的表現。
一体どうして生あるものに到達できるような手法やシステムがあり得るというのか?
静的で固定化された生なきものに対しては、到達する方法、明確な進路があり得るだろう。
しかし、生あるものに対しては、そんなものはありはしないのだ。
〜「ブルース・リーが語る ストライキング・ソーツ」ジョン・リトル(編)より〜
真実はパターン化された枠の外に在る。
私たちは一人一人異なります。
誰一人として同じ人は存在しません。
このように元々自然なものであるのに、特定のシステムに当てはめようとしてしまう事自体がとても不自然です。
ブルース・リー自身も、詠春拳のみならず、
柔道、空手、レスリング、ボクシング、
その他あらゆるものを参考にしつつ
自分にとって最適なものを見出そうとしていました。
(ボクシングに関してはモハメド・アリの映像を何度も繰り返し見て研究した、と言う話も有名ですね。)
〜自分にとって最適なやり方は何なのか?〜
〜これは私にとって最適なやり方なのだろうか?〜
といったように自問自答しつつ、全力で探求し続けたのだと思います。

これらは全て、
己にとっての真実を見出す為に
否定も肯定もせず、中庸な精神で試してきたのだと考えられます。
偏った考えや見方を止め、物事をありのまま見る事。
細部に拘るのではなく、全体的視点から物事を見ること。
これらを実践し、自身で探求し続けた時
「あなた」という自然な存在と調和する「真実」が訪れるかもしれません。